2009年07月03日

日本の関西地方

大阪市(おおさかし)は、日本の関西地方、大阪府のほぼ中央に位置する市で、同府の府庁所在地である。政令指定都市に指定されている。
大阪市は、近畿地方および西日本の行政・産業・文化・交通の中心都市であり、市域を中心として、大阪都市圏および京阪神大都市圏が形成されている。大阪市の2005年(平成17年)の市内総生産は約22兆円で、政令指定都市中最大であり、2倍から3倍の人口を擁する埼玉県や北海道、兵庫県の県内総生産より多い[1]。また、京阪神大都市圏の圏内総生産は、国内では首都圏に次ぎ、世界的にも上位にある[2]。人口(夜間人口)は、東京都区部、神奈川県横浜市に次いで全国3位の約265万人(ただし、大阪市は面積が狭いため、人口密度だけを見ると横浜市を抜いて全国2位)、昼間人口は東京都区部に次いで全国2位の約358万人である。近年では都心回帰が顕著で、中心部三区を中心に増加傾向にある。
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古代から瀬戸内海・大阪湾に面した当時の国際的な港である住吉津や難波津などのある外交に関連した港湾都市として栄え、古代の首都としての難波宮、難波京などの都城も造営された。中世には、浄土真宗の本山であった石山本願寺が置かれ、寺内町として発展した。近世初期には豊臣秀吉が大坂城を築城し、城下町が整備された。江戸時代には天領となり、江戸をしのぐ経済・交通・金融・商業の中心地として発展。天下の台所と称され、豊かな町人文化を育んだ。明治時代に入ると、繊維工業を中心とした工業都市となり、「東洋のマンチェスター」、「煙の都」と称された。

2009年06月09日

獣医師(じゅういし、Veterinarian)は動物の医師

獣医師になるためには、獣医学系大学を卒業して農林水産省が実施する獣医師国家試験に合格し、獣医師免許を取得しなければならない。

獣医師でない者が、飼育動物(牛・馬・豚・めん羊・山羊・犬・猫・鶏・うずら・その他獣医師が診察を行う必要があるものとして政令で定めるものに限る)の診療を業務としてはならない(業務独占資格)。また、獣医師でない者が「獣医師」の名称を用いるのはもちろん、「動物医」・「家畜医」・「ペット医」等の紛らわしい名称も用いてはならない(名称独占資格)。

獣医師法では、動物の診療や保健衛生指導などを通して、次の三つに寄与することが使命とされている。

動物の保健衛生
畜産業の発展
公衆衛生の向上
インポ ギフト 検定 近畿東海 専門学校 旅行 化粧品 介護サービス ネイル 求人募集 ポイント インポ 結婚 抜け毛 古着 スクール おもちゃ 学習 九州沖縄 育毛 スポット サプリ 増客対策 実益 行政書士 生活雑貨 リラク アクセサリー 介護 贈り物 パソコン 特産物 墓地 教育 ホテル ステイ 水族館 育毛 ビジネス 行政書士 法人設立 結婚 リラク 通信販売 介護 ファッション 語学 交通地図 生涯学習 遊園地

臨床獣医師 [編集]
小動物臨床獣医師
住宅地等で自ら動物病院など小動物診療施設を開設、または既存の小動物診療施設に雇用されて勤務し犬や猫などを対象として診療行為を行なう小動物臨床、いわゆるペット病院の獣医師。
単に「獣医師」というとこのような小動物臨床の獣医師だけを連想しがちだが、獣医師免許を持つ者全体のうち小動物臨床の獣医師が占める割合は、都道府県別で最も高い東京都でも約6割程度でしかない。日本全国で見た場合でも全体の4割程度しかなく、残りは、これ以降記述されている各分野の獣医師である。

なお獣医師は診療した場合、診療簿(医師の診療録にあたる)にその事実を記載しなければならない。最近では空前のペットブームに伴って、欧米のペット先進国並みにペット保険が定着しつつある。
産業動物臨床獣医師
農村地域等で自ら診療施設を開設するか農業共済組合または農業協同組合等に勤務して周辺の畜産農家に往診し、牛や豚・鶏などの産業動物を対象とする診療行為のほか、ワクチン接種及び消毒など伝染病予防の衛生指導といった予防衛生業務を行なう獣医師。最近では動物福祉や食品のトレーサビリティに関する指導を行う例もあり、企業形態の畜産農場に雇用されて勤務している者もこの範疇に入る。
農村地域で自ら診療施設を開設した産業動物臨床の獣医師が、往診先の農家で飼われているペットの診療を行なうことは法的に何ら問題ないため、近隣に小動物臨床獣医師がいないような地域ではそのようなケースも意外と多い。
その他の臨床獣医師
競馬場や競走馬の育成牧場、日本中央競馬会(JRA)など馬の関連施設に勤務する馬専門の臨床獣医師。
動物園や水族館に勤務し、そこの展示動物を対象とする臨床獣医師。
もともと関係施設の数や従事者の需要そのものが少ないうえに、他の分野に比べると人気が高いこと等から、この分野へ就職することは非常に困難とされている。そのため獣医師免許を取得していても、敢えて厩務員や飼育員としての勤務を志す者が少なくない。

2009年04月25日

東方問題

東方問題(とうほうもんだい、英 Eastern Question)とは、オスマン帝国およびその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題。広義にはオスマン帝国成立以来、キリスト教ヨーロッパ世界がイスラーム教国であるオスマン帝国の圧迫を受け、それに関わるヨーロッパ諸国間の外交問題。狭義においては18世紀以降のオスマン帝国の解体過程に伴って生じ、19世紀に顕著となったオスマン帝国領内での紛争に関連するヨーロッパ諸国間の国際問題を意味し、今日一般的にはこの用法で使われる。

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「東方問題」は、ヨーロッパから見て東方に位置するオスマン帝国を中心とした地域におけるヨーロッパの一連の外交問題を総称した、主にヨーロッパ側の呼称である。 広義には、14世紀末以降オスマン帝国のバルカン半島進出によって形成された外交問題で、対オスマン十字軍やオスマン帝国を利用したブルボン家の対ハプスブルク家外交などを含み、20世紀前半のトルコ共和国成立にいたるまでのヨーロッパ対オスマン帝国間の外交問題。 狭義の、そして今日一般に使われる意味での「東方問題」は上記のうち、特に後半期の18世紀後半から19世紀後半にかけた外交問題を指し、オスマン帝国解体期にヨーロッパ諸国間の勢力均衡を帝国領の分配によって調整しようとしたものである。 以下今日一般的に使われる「東方問題」として、狭義について説明する

バルカン半島のオスマン帝国領は1699年のカルロヴィッツ条約以降縮小・解体に向かい、それに伴ってこの地域へのオーストリアとロシアの進出が始まり、また1821年以降のギリシャの独立運動などに代表されるように、バルカン諸民族が独立に向けて活発化するようになる。オスマン帝国治下のバルカン半島の民族分布は複雑に錯綜しており、これらの民族が国民国家を形成しようとする場合、その領域の決定には民族問題が不可避に関わる状況であった。このような状況に際し、ヨーロッパ列強はバルカン半島の紛争に介入して、一国がオスマン帝国との外交関係において「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害を調整しパワーバランスの維持に努めた。またオスマン帝国側もヨーロッパの国際関係を利用して自国の領土と利益を守るために主体的に外交紛争に関わった。これら「東方」の状況は、同時に、ヨーロッパ諸国自体の政策に影響する側面も持ち、とくにクリミア戦争は各国の政治・経済状況に顕著な影響を及ぼした。

2009年04月08日

ニューミュージック

ニューミュージックとは、都会的な情景を織り交ぜたポップ調のサウンドを基調とするシンガーソングライターによる作品群である。主として、1970年代から1980年代にかけての日本のポピュラー音楽の一部に対して使われた名称。ニュー・ミュージックとも表記される。広辞苑にもニューミュージックという呼称は掲載されている。

この言葉の由来は明確ではないが、あるレコード会社が使用を始めたとする説(あるアルバムの帯に記載されたとする説、たとえば、猫のアルバム)、音楽評論家(三橋一夫とも言われているが不明)が使用を始めたとする説などがある。対象として、1970年代初頭の音楽を含むが、実際に、この言葉が盛んに使われるようになったのは、1970年代半ば以降である。

なお、一部には、雑誌「ニュー・ミュージック・マガジン」がもとになっているとする説もあり、関係ないとは断言できないが、この雑誌は、洋楽中心の雑誌であり、この雑誌の存在が、ニューミュージックの範囲についての混乱をかえって助長したという面は否めない。

もともとは、従来のフォークとも異なり、かといって歌謡曲(主としてアイドル歌謡曲)とも異なる音楽を意味するものであった。すなわち、フォークをルーツとしながら、より洗練され、それでもなお、歌謡曲とは違うという意味合いで使われた。しかし、この言葉が実際の使用場面でいろいろな意味で使われたため、現在では、その境界(どのアーティストのどの作品を意味するか)が極めてあいまいになっている。

ただ、メッセージ性の強いフォークやハードロック系は、一般に含まないとされることが多い。なお、大瀧詠一、山下達郎などのはっぴいえんど・ナイアガラ系のミュージシャンについては、ニューミュージックに含める場合と含めない場合があり、いずれにすべきなのかについては、あまり議論はなされていない。

ニューミュージックの始まりは、おおむね、1972年ごろ、といわれている。具体的には、1972年の

吉田拓郎「結婚しようよ」
井上陽水「傘がない」
荒井由実「返事はいらない」
そして、1973年の

かぐや姫「神田川」
などを、始まりとすることが多い。

曲的には、従来のフォークが、例えばギター1本で、曲よりも詞を重視する傾向が強かったのに対して、ニューミュージックは、より楽曲を重視し、編曲家やスタジオ・ミュージシャンが主体となって、複雑な音楽を作ることが多くなっていった。かといって、当時の歌謡曲のように、歌手が「与えられた曲を歌う」というようなことは少なく、ほとんどの場合、シンガーソングライターであり、自分で作曲をしていた。その意味で、歌謡曲とは一線を画すということが、本来のニューミュージックの意味には内在されていたといえる。

詞的には、従来のフォークに比べると、メッセージ性や社会性が薄れ、個人的な内容になり、特に、恋人とのふたりの関係に重点を置いたものが多くなっている。

なお、ニューミュージックの歌詞においては、男性歌手が女言葉で歌うという例が散見される。例えば、上記の「神田川」がそうであり、風「22歳の別れ」もそうである。その他、松山千春、長渕剛(初期)、堀江淳など、そのような作品を残したアーティストは枚挙にいとまがない。また、さだまさしの「秋桜」のような特殊な例(曲を提供した相手が女性(山口百恵)であったが、のちセルフカバーをした)もある。これは、ロックでは考えにくいことであり、ポップスや初期のフォークでもあまり例はない(シャ乱Qのような例外もある)。一方、演歌・ムード歌謡においては多数例がある。

一方、その終わりはあいまいで、1980年代中ごろには終わっていたとする説、1980年代末までとする説、1990年代まで一部は続いていたとする説など、様々である。ただ、そのピークは、おおむね、1970年代後半とされている。

ニューミュージックを、

1970年代前半(吉田拓郎・井上陽水・小椋佳・荒井由実・かぐや姫・五輪真弓など)
1970年代後半(中島みゆき・大塚博堂・来生たかお・ツイスト・ゴダイゴ・アリス・松山千春・さだまさし・八神純子・久保田早紀・竹内まりやなど)
1980年代(以降)(五十嵐浩晃など)
の3つに時期区分する考え方もある。ただし上記の歌手の区分には大きな疑問も存在し得る。例えば、1970年代後半に挙げられた歌手やグループの多くは1980年代になっても人気を維持しており、例えば中島みゆきは2000年代に入ってからも『地上の星』でオリコンチャート1位入りを果たしている。また久保田早紀はむしろ1980年になってから人気を得たと言われている。アーティスト側でも自らの音楽を「ニューミュージック」と規定した者は殆どいないといってよく(松任谷由実は自らのベストアルバムのタイトルをドイツ語で「新しい音楽」を意味する『Neue Musik』としているが)、例えばさだまさしは一貫して自分を「フォーク歌手」としている。

1980年以降、シティ・ポップス、和製ポップス、J-POPなどの呼称が、ニューミュージックと厳密には同じでないが、似たような範囲の音楽を意味して使われるようになり、特に、J-POPが一般に過去の作品も含めてかなり広い音楽を対象として含めるという事情もあり、その結果からか、ニューミュージックという言葉は、現在の音楽に対してはあまり使われない呼称となっている。

他の音楽ジャンルとの関係を考えると、一般には、日本のフォークがリズムやテンポがよく、しばしば明るい曲調になるという意味で洗練されたもの(いい意味とは限らない)をニューミュージックと呼び、さらにリズムやテンポがよく、明るい曲調になるという意味でより洗練されたもの(アメリカ化というべきか。やはり、いい意味とは限らない)を(狭義の)ポップスと呼ぶ、ということが言えるという意見もある。

また、J-POPは、一般に(アイドル)歌謡曲も含み、アーティストがシンガーソングライターであることはまったく問わない。これに対して、ニューミュージックは、歌謡曲ではないことが本来の基本であり、シンガーソングライターであることを、より重視する。具体例を挙げると、モーニング娘。やSMAPは、J-POPに入りうるが、山口百恵や西城秀樹は、ニューミュージックには入らない。ただし、この区別も、絶対的なものではない。歌謡曲とニューミュージックとJ-POPの境界線自体が定かではなく、例えば太田裕美や渡辺真知子はどれに属するのかは論者によってまちまちになるだろうと考えられ、また分類すること自体に意味があるのかどうかという意見もあり得る。

ニューミュージックであるかどうかの判断をする際に、1970年代後半にある程度ヒットしていることを条件とする考え方もある。すなわち、音楽的な面(楽曲)を見てニューミュージックといえそうであっても、1970年代後半にある程度のヒットとなっていない場合(ヒットを出していないアーティストの場合)には、ニューミュージックとは呼ばないという立場である。

ニューミュージックについては、そのような名前を付けて、レコード会社、レコード店、TV・ラジオの番組等が積極的に使用したことにより、フォークを大衆化させ、人気を高め、よりすそ野を広げたという点において評価される一方で、フォークを産業化させた(若者の音楽文化を、レコード会社などのメディア産業が取り込み、金儲けのためのビジネスにしてしまった)という面において批判されることが多い。したがって、ニューミュージックに属するとされるミュージシャンは、ある意味で、この点についての加害者でもあり、被害者でもあるといえる。ただ、このことは、ニューミュージックだけではなく、その後のJ-POPでも同じであり、ニューミュージックは、その始まりに過ぎない。

(注1)2004年現在、「ニューミュージック」という言葉はほとんど使われなくなっていることから、個々のニューミュージックのアーティストがいつニューミュージックでなくなったのか、という議論がある。例えば、松任谷由実を例にとると、「松任谷由実の場合、いつまでをニューミュージックと呼べるか、いつからニューミュージックでなくなったか」という議論である。いろいろな意見があるが、例えば、アルバム『SURF&SNOW』(1980年)までとする説、ミニアルバム『水の中のASIAへ』(1981年)までとする説、ほぼ同じ時期であるが、シングル『守ってあげたい』(1981年)以降をニューミュージックでないとする説などが有力であり、いずれも、1980年代初期を境としていることが多い。これに対して、単に、ニューミュージックという言葉が使われなくなったという用語の問題であり、個々のアーティストについて、いつまでがニューミュージックか、という問題の立て方そのものがナンセンスである、とする考え方もある。

(注2)ニューミュージックという呼び方は、「音楽・楽曲」を示す用語であるが、現実には、個々のアーティストに引っ張られることがほとんどである。典型的な「ニューミュージックのアーティスト」である松任谷由実を例にとると、1970年代後半の時期に、松任谷由実がアイドル歌手に曲を提供していたとしても、そのアイドル歌手が歌うその曲をニューミュージックと呼ぶことはない。ところが、同じ曲を、松任谷由実が歌うとしたら、とたんにニューミュージックと呼ばれるであろう。すなわち、同じ曲であっても、歌う者により、ニューミュージックになったり、ニューミュージックでなくなったりするということがありうるわけである。また、さだまさしは1980年代に入ってからむしろ社会的なテーマを扱う作品が増えている(さだ本人は一貫して自らを「フォーク」に位置付けている)。

ターラン ジープ 指相撲 ギスタン ピアサ ネンタケ リーズ ろくめい レヤイ モルタ つちいろ ダム最適 スモークン シンク ランス スキャッ テヘラ プロケド キックバ バングル シングル ジェルボア ロフト カッサバ ネーズ ロース あわゆ マイド スローキ くわがた ナノマ ミネラル イミテー 桃一郎 ノット マップマット すくね ロール ウォッチ オードュ イズム スタン トレー ドラッスト トラフ ハインド シナサ ジット 邪馬台国 エッフェル

2009年03月24日

阪堺電気軌道

上町線(天王寺駅前駅)は相対式2面1線のホームを持ち、東側のホームを乗車用、西側のホームを降車用として使用する。ホーム長は2両分(普段は車止めから1両分を空けて停車し、そこで客扱いを行うが、稀に貸切の臨時列車を運転する場合は、臨時列車を車止めぎりぎりの位置に停め、その手前に定期便の列車が入って客扱いを行う)。住吉公園行き・我孫子道行きの列車が発着(初発・最終列車は我孫子道行き)。南海平野線が廃止になるまでは前部が我孫子道駅もしくは住吉公園駅行きの列車が、後部では平野行きの列車が発着していた。窓口と改札口(阪堺電気軌道唯一の改札)が設けられており、窓口では定期乗車券の購入や一日乗車券等の購入が可能で、改札口では午前7時から午後9時までは集札業務を行われている。

歴史 [編集]
1900年(明治33年)9月20日 - 大阪馬車鉄道、天王寺?東天下茶屋間の開業と同時に、公園東門駅(現在の天王寺駅前交差点付近にあった駅)として開業。
1907年(明治40年)3月29日 - 大阪馬車鉄道が大阪電車鉄道と改称し、大阪電車鉄道の駅となる。
1907年(明治40年)10月29日 - 大阪電車鉄道が浪速電車軌道と改称し、浪速電車軌道の駅となる。
1908年(明治41年)2月1日 - 電化工事のため、一旦、廃止となる。
1909年(明治42年)12月24日 - 浪速電車軌道が南海鉄道に合併され、南海鉄道上町線の駅となる。
1910年(明治43年)10月1日 - 天王寺?住吉神社前間で電車による営業運転を開始したのと同時に旅客営業を再開。
1921年(大正10年)12月24日 - 大阪市の施策である「市営モンロー主義」に基づき、南海鉄道上町線の天王寺?公園東門間の路線が大阪市電気鉄道部が買収され、南海鉄道上町線の終着となる。
1921年(大正10年)?1952年(昭和27年)の間
駅名を天王寺駅前に改称。
駅が現在地に移設される。
1944年(昭和19年)6月1日 - 関西急行鉄道と南海鉄道が合併、近畿日本鉄道の駅となる。
1947年(昭和22年)6月1日 - 路線譲渡により南海電気鉄道の駅となる。
1980年(昭和55年)12月1日 - 路線譲渡により阪堺電気軌道の駅となる。
またこの駅できる前にも、天王寺駅前駅が存在した。現在の阪堺電気軌道天王寺駅前駅の0.1km(営業キロで)北側で、あべの橋橋梁の上にあった
1993年までの状況
かつては南海天王寺支線の天王寺駅もあった。現在は天王寺MIOが建っている部分に島式ホームの19・20番線があり、旅客列車はほとんど北側の19番線に発着していた。天下茶屋駅?今池町駅部分廃止後は、阿部野橋直下に単線の仮設ホームを作って発着していた。かつては国鉄と貨物の連絡もしていた。地下鉄堺筋線の天下茶屋延伸により1993年に廃止された。

歴史 [編集]
1900年(明治33年)10月26日 - 開業。
1993年(平成5年)4月1日 - 廃止。

隣の駅 [編集]
天王寺支線
飛田本通駅 - 天王寺駅

利用状況 [編集]
JR西日本
2007年度の1日平均乗車人員は142,268人である。これはJR西日本の駅では第3位である。
大阪市営地下鉄
1998年の乗降客数は、御堂筋線195,030人、谷町線84,576人で、両者合計279,606人である。
2007年11月13日の調査では、乗車人員は136,022人、降車人員は133,003人で、両者を合わせた乗降人員は269,025人である[1]。
阪堺電気軌道(天王寺駅前駅)
98年の乗降客数は20,757人である。

ミング カメリア ハード ナーナ バスロフ バイザー シースルー ピンポン アール キンメイ おもいで モスク バゲージ きらめき ワシン ステージ ドンキ バージョ トンガ スノイズ 春が来た ガスマ オープン チルド シクラメ オーバ ケール バタリアン オカル イシュー トップ スタイ スロバキア ミドルエ ミニマム マキドイ フェイ 王様の楽園 ミラー フーズフー 時の風 リーバイ ゴユリ レイキャ ブラン フリップ ショット ホイール ガーデ アルフ

2009年03月08日

マンゴー(檬果、芒果、学名:Mangifera indica)

マンゴー(檬果、芒果、学名:Mangifera indica)は、ウルシ科マンゴー属の果樹、またその果実。菴羅(あんら)、菴摩羅(あんまら)ともいう。

原産地は、インドからインドシナ半島周辺と推定されている。そのうち、単胚性(一つの種から一個体繁殖する)の種類はインドのアッサム地方からチッタゴン高原(ミャンマー国境付近)辺りと考えられ、多胚性(一つの種から複数の個体が繁殖する)の種類はマレー半島辺りと考えられている。インドでは4000年以上前から栽培が始まっており、仏教の経典にもその名が見られる。現在では500以上の品種が栽培されている。インド、メキシコ、フィリピン、タイ、オーストラリア、台湾が主な生産国で、日本では沖縄県、宮崎県、鹿児島県、和歌山県、熊本県で主に栽培されている。

日本では露地栽培により果実を実らせることが難しいため、農家ではビニールハウス栽培を採用している。ハウス栽培される目的は高い気温の確保ではない。気温が比較的台湾と似ている沖縄県においても、出荷用のマンゴーはハウス栽培である。これはマンゴーの開花時期が日本の雨季と重なるため、水に弱いマンゴーの花粉を雨から守ることで受粉をさせ、結実させる目的から行っている[1]。

マンゴーの木は常緑高木で、樹高は40メートル以上に達する。開花と結実時期は地域により差がある。枝の先端に萌黄色の複総状花序を多数付ける。花は総状花序と呼ばれる小さな花が房状で咲く状態になり、開花後に強烈な腐敗臭を放つ。この腐敗臭により受粉を助けるクロバエ科などのハエを引寄せている。マンゴーの原産地の熱帯地域は、ミツバチにとって気温が高すぎるため、マンゴーは受粉昆虫としてハエを選んだと考えられている。日本のハウス栽培では受粉を助ける昆虫としてミツバチをビニールハウス内に飼っている。果実は系統によって長さ3?25センチ、幅1.5?15センチと大きさに開きがあり、その形は広卵形とも勾玉形とも評される。果皮は緑色から黄色、桃紅色などと変異に富むが、果肉は黄色から橙紅色で多汁。果皮は強靱(きょうじん)でやや厚く、熟すと皮が容易に剥けるようになる。未熟果は非常に酸味が強いが、完熟するとほとんど酸味は無くなって甘みが強くなり、松脂に例えられる独得の芳香を放つ。

マンゴーとかぶれ
マンゴーは、ウルシと同様、ウルシオールという接触性皮膚炎(かぶれ)の原因となる物質が含まれており、高率にかぶれを引き起こすため注意が必要である。痒みを伴う湿疹などのかぶれ症状は食べてから数日経って発症・悪化する場合があり、ヘルペスなどと誤診されることもある。

熟した実を、中心にある種に沿って切り、生のまま食用にするのが一般的だが、ジュース、ピューレー、缶詰、乾果(ドライマンゴー)などにも加工される。果肉またはピューレーを使い、ゼラチン、砂糖、生クリームなど他の材料を合わせたゼリー(香港のマンゴープリンが有名)、ムース、ケーキ、シャーベット、スムージー、グミなどの洋生菓子も盛んに作られている。また、未熟果を塩漬け、甘酢漬け、チャツネにする。東南アジアでは未熟果に唐辛子入りの砂糖塩につけ食したり、炒め物などの料理に使用したりする。栄養面では、特にビタミンAやβ-カロテンが多い。

地域によってはパパイヤのようにマンゴーの未熟果実を野菜として、おやつとして食する文化が珍しくない。タイとベトナムでは緑色の未熟果実が庶民のおやつとして食べられている。これには塩をつけて食べる。ほとんど甘みはなく、未熟な果実の鮮烈な酸味と歯ごたえを楽しむ。台湾では小ぶりのマンゴーの未熟果実を丸ごとシロップ漬けにしたオヤツが食べられている。インドではマンゴーの未熟果実を乾燥させ粉末にしたものはアムチュールと呼ばれ、酸味付けのスパイスとして使用される。ガラムマサラにアムチュールを加えた複合スパイスはチャットマサラ(Chaat masala、??? ?????)と呼ばれ、インド料理では広く使用される。

ペリカンマンゴー
日本で売られるペリカンマンゴーは主にフィリピン産である。正式な品種名は「カラバオ」である。外観は黄色く、他の品種と比べると酸味がやや強い。ペリカンという名は、実が扁平であり、ペリカンのクチバシに形が似ているためである。

アップルマンゴー
アップルマンゴーとは、アーウィン種の俗称。日本での栽培の96%がこの品種である。この品種と比較するとキーツやキンコウは一本の木に沢山実がならない。また熟する時期が確認しづらい上に大きくて買い手が少なく、流通ルートに乗りにくい。JA宮崎は、アーウィン種で、糖度15度以上、重さ350g以上の特秀・赤秀の完熟マンゴーに「太陽のタマゴ」というブランドを付けて販売している。小売価格が通常ひとつ5,000円以上する高級品である。
日本では植物防疫法によって、侵入を警戒する農業大害虫のミバエ類が発生している国・地域からのマンゴーの生果実の輸入は原則として禁止されている。しかし、輸出国において果実に寄生する対象ミバエ類の完全殺虫処理技術等が確立されれば、各国より申請された品種について日本側(農林水産省)が検討し、問題無いとの結論に至ったものは殺虫処理などの条件を付して日本への輸入が認可されるようになった。殺虫処理技術には飽和水蒸気による果実の加熱処理である蒸熱処理や温水に果実を漬ける温湯浸漬という工程が用いられることが多い。これら条件付き輸入解禁により、1990年代後半ごろから全国のスーパー等の小売店でフィリピン産などのマンゴー果実が安価で売られ、また菓子などの加工物の原材料としても幅広く用いられるようになり、一気に代表的な熱帯産果物の一種として日本の社会に浸透した。さらに、2007年に宮崎県知事に当選した東国原英夫によるマスメディアを通じた売り込みによって宮崎県産の高級ブランドである「太陽のタマゴ」がブームになり、マンゴーに対する社会的な注目が高まっている。

日本では写真の花切りがマンゴーの切り方として定着している。切り方は中央の平たい種をさけ、魚を3枚におろすように包丁を入れ、切った面にさいの目状に切り目を入れる。そして両手で皮を押して果肉を反り返すと花のような形になる。

タイのマンゴー
タイでは60種類以上の品種が栽培されているが、条件付で輸入が解禁されたのが1987年で、現在日本へ輸入できるマンゴーはナムドクマイ種、ナンカンワン種、ピムセンダン種、ラッド種、マハチャノ種の計5種類のみである。
プレシン スタン ガッツ ジャー ひのえま トーイ プールバ ジメチル ウイット ブチュ ディス ハピパラ ていてつ コチニー ハトムギ トライク 紅葉雪 スカラ はちのへ ストラ 熱帯雨林 ストーン テンス もみじが NETリブ 恋待月 サーチ 桜坂 チシェリー トートナビ フェノール ツルコ のへじ トレラ ルーセン つるみ デジカルビ ディパー オーナラ すぎごけ デルフ マニフェ デリン ようとう スエヒ レソト スイング リベート ハッピー ミリグラム

日本人には糖度の高さと極め細かな食感が特徴のナムドクマイ種が最も好まれ、日本に輸入されているタイ産マンゴーのほとんどを占めている。ナムドクマイとはタイ語で「花のしずく」という意味で、しずく状のマンゴーの形が名前の由来である。

タイ産のマンゴーは雨季があける11月?6月が美味しく、日本にもこの時期に多く輸入されている。外国産のマンゴーではメキシコ、フィリピンについで3番目の輸入量である。

インドのマンゴー
マンゴーの王と呼ばれるアルフォンソ・マンゴーは、3月から5月にかけて実り始め7月頃に終わる。甘く特有の香りがある。雨期の数ヵ月前に数日間雨が降り、その雨により一気に熟する。この雨をマンゴー・レインと呼び、デカン高原では4月中旬から5月初旬に降る。雨期が始まる6月中旬で、アルフォンソ・マンゴーの季節は終わる。デーヴガル産のアルフォンソ・マンゴーが最高だと言われ、実が大きく味が濃い。最近は化学肥料を使い、果実を大きく育てた物が他の地方でも作られるが、大きいだけで味は薄くデーヴガル産の物にはかなわない。デーヴガル産でない場合は、化学肥料を使わない小ぶりなものの方が味が濃くおいしい。

2006年より条件付で日本への輸入が解禁された。現在輸入できる品種はアルフォンソ種、ケサー種、チョウサ種、バンガンパリ種、マリカ種、ラングラ種である。

2009年02月20日

グラディウスシリーズ

『グラディウス』 (Gradius)シリーズは、コナミより発売されたシューティングゲームのシリーズ作品である。
アールグ モントリ 健やか バリン 九重 スクレイピ ゲゼルシ マスター スキップ プール パッセ ジュエリー 螢火 スマイリー スイカズラ うごう ジャズマ クロッカス ほうてき あまつき ナチュラル シリコン シフト トート フコイ クリアム いたやなぎ テタニー シリンジ ゼロベ チェック ワット ハリス ザッテル レート ブッダガ プラザ ちょう ハーモ せみね チャット オカルテ タンパー ヒューストン ナルシ ドリアン トップ ストーリ イズド ジェンヌ

グラディウスとは元来、ラテン語で「剣」の意の「Gladius」である。特に古代ローマ時代に兵士が用いた短剣をさすことが多い。

しかし、本シリーズの綴りは『GRADIUS』で、かつ武器でも自機でもなく、星の名前とされている。デザイナーの中村健吾へのインタビューによると、前記の語とはたまたま発音が似ているだけの造語とされている[1]。

初代作品の日本国外版タイトルは『NEMESIS』だったが、『グラディウスIII -伝説から神話へ-』からは日本国外版も「GRADIUS III」になっている。

なおビデオゲームにおける『グラディウス (GRADIUS)』の商標権は、本作の発売以前にコナミよりも先にナムコが登録していた。しかし、こちらは「家庭用ビデオゲーム」としての商標登録であったため、コナミによる本作の発売に影響はなかったとされる。また、コナミは本作の発売後に業務用ビデオゲーム『グラディウス』の商標権の出願を行っている。

ゲームの流れ
各ステージの本編が始まる前には「空中戦」もしくは「前衛」と呼ばれるパートとステージ空中戦には専用BGMも用意されている。空中戦はステージ間をつなぐ役割および装備をパワーアップを可能にする役割を果たしている。またステージ本編の最後にはビッグコアなどのボスが登場し、撃破すると次のステージに進める。ステージによってはボスの直前には中ボスや大量の敵が登場することもある。

『グラディウスII』以降では最終ステージに入る前に「ボスオンパレード」と呼ばれる、それまでの作品のボスが多少の改変を加えられ再登場するステージがある。最終ステージは敵の要塞というのが初代作品以降シリーズの伝統となっている。一部の作品を除き、ラスボス(最終ボス)は全く攻撃してこない、あるいは簡単に回避可能な攻撃を仕掛けてくるのみなのもやはり伝統となっている。それ以外にも大半の作品に火山やモアイ、細胞がそれぞれ登場するステージが存在するなどシリーズ恒例となっている事項が多数ある。

ラスボス撃破後はエンディングを挟んで再び最初のステージに戻り高次周回がスタートする。2周目以降は敵の弾数や編隊数が増加する、撃ち返し弾を撃ってくるなど難易度が上昇する。

操作方法
操作方法は作品により異なるが、アーケード版作品では基本的に8方向レバーと3ボタン(パワーアップ・対空ショット・対地ミサイル)を使用する。プラットフォームによっては対空ショットと対地ミサイルを1ボタンで併用する場合もある。

パワーアップボタン
赤いパワーカプセル取得後、パワーメーターが光っている箇所のパワーアップを装備する(次節で述べる)。
ショットボタン
通常は2連射可能なノーマルショットを前方に発射。パワーアップすることでダブル、もしくはレーザーを発射する。
ミサイルボタン
パワーアップの「MISSILE」装備後に、ミサイルを発射。

パワーアップ
特定の敵を倒すことで出現する赤いパワーカプセルを取り、好きな装備でパワーアップさせるユニークなシステムが取り入れられた。画面下にゲージがあり、カプセルを回収するごとに左端から順番に点灯、パワーアップボタンを押した時に点灯しているパワーアップが装備される。

革新的なシステムだったが、シリーズ以外では同社の『魔獣の王国』、『ファーストレーン』(国内未発売作品)の他、データイーストの『サイコニクス・オスカー』、東亜プランの『スラップファイト』『ヴイ・ファイヴ』に採用されているのみ。

パワーカプセル
パワーカプセルは4機以上の敵編隊を全滅させるか、赤い敵を倒すと出現する。赤と青の2種類がある。回収によって得られる点数は作品・バージョンによってまちまちであるが、0点となっている作品もある。

赤カプセル
パワーアップに使用する。赤カプセルを1つ取るごとにパワーメーターのインジケーターが移動していき、パワーアップボタンを押すとパワーアップできる。
青カプセル
赤カプセルを15個出現させた後に対象の敵を倒すと出現。取った瞬間に画面上の雑魚敵(ノーマルショット1発で倒せる敵)を全滅させることができる。耐久力のある敵には、ノーマルショット1発を撃ち込むのと同等の効果がある。効率よく出現させることで窮地を切り抜ける手段に成り得たが、意図的に敵を倒さずに進むのは困難であったため、出現位置を調整するには高度なテクニックが要求された。

パワーメーター
自機のパワーアップはパワーメーターによって行う。赤カプセルを集めることでパワーメーターのゲージを点灯させていき(セレクトサイン)、装備したいパワーアップゲージが点灯したときにパワーアップボタンを押せば、そのパワーアップを装備できる。パワーアップを果たすとゲージの点灯が解消され、メーターは初期状態に戻る。

パワーメーターが初期状態のときに赤カプセルを1つ取得すると、画面下部のメーターが以下のようになる。

この状態でパワーアップボタンを押せば、「SPEED UP(スピードアップ)」を装備する。それと同時にメーターは初期状態に戻る。

「スピードアップ」を装備せずにさらに赤カプセルを1つ取得すると、以下のようになる。

この状態でパワーアップボタンを押せば、「MISSILE(ミサイル)」を装備する。それと同時にメーターは初期状態に戻る。

あとは上記の繰り返しで、途中でパワーアップせずに赤カプセルを集めていくことで、「DOUBLE」、「LASER」、「OPTION」、「?」と順次点灯させていくことができる。その途中でパワーアップを行えば、そのパワーアップが装備されると同時にゲージの点灯は解消され、初期状態に戻る。ただし、そのとき装備したものがこれ以上装備できない、または重複装備できないものであった場合は、ゲージが初期状態に戻ると同時にゲージ内の表記が消え、再び装備できる状態になるまでは再装備することができなくなる。

なお、メーターの右端に位置する6番目のゲージ「?」を点灯させた状態で、さらに赤カプセルを取得すると、メーターは左端1番目のゲージ「SPEED UP」に戻る。また、続編および派生作品の一部ではゲージの数が6つ以上存在するものもあるが、基本的な流れは同一であり、最後のゲージが点灯中にさらに赤カプセルを取るとやはり1番目のゲージに戻る。

ミス時にパワーメーターのどこかが点灯していた場合は、再スタート時には最初から一つだけ赤カプセルを持った(「SPEED UP」ゲージ点灯)状態から再開する(通称:保険カプセル)。

パワーアップの1つであるオプションは、自機と同じ攻撃を行い、敵や地形に接触しても破壊されない無敵の発光体である。最大4個を装備することができる。本シリーズは、これまでのシューティングゲームに比べて、非常に強力なパワーアップ装備を得ることができるが、オプションを装備することでそれらの攻撃力を単純に倍加することができるという特徴があった。最大数装備で、単純に5倍の弾数となる上、ミスしない限り永続的に装備可能となっていた。このシステムは当時の基準からすると、まさに破格のパワーアップだった。シリーズ中の作品によっては、名称が「マルチプル」になることもある。

オプションは自機の動きを追従して動くが、同社の『ツインビー』で採用された分身とは異なり、自機の停止中はオプションも停止する性質を持つ。これが本作の最大の特徴の一つである。自機の真後ろに設置することでショットやレーザーの攻撃力を格段に高めたり、上もしくは下に並べたまま停止することで、自機では攻撃不可能な位置の敵が破壊可能となったりと、戦術的なゲーム性を生み出した。

このシステムはグラディウスシリーズのみでなく後に多くのゲームにも応用され、『サンダークロス』のフォーメーションオプションや、『R-TYPE』のフォースなど、様々な発展型も生み出されている。

後続への影響
『グラディウス』の登場は後のシューティングゲームに大きく影響を与えた。具体的には、視覚的にもゲームとしても多彩で個性的なステージをそれぞれ用意したこと、またそれまでのシューティングゲームが攻撃範囲の狭い単発ショットの連射などで敵を狙い撃つことを中心に置いた作品が主流だったのに対し、自機が画面全体を埋めんばかりのショットが使えること、さらにそれを必然とする敵配置や激しい敵攻撃を設定したことが、影響を与えた要素として挙げられる。そして、使用されるハード性能が強化されていくと共に、シューティングゲームは敵の狙撃から、本シリーズのような、場そのものの支配を主眼に置いたデザインがされるように転換されていった。一方で、このことはシューティングゲーム全体の高難度化にも繋がり、ジャンルの複雑化を進ませるきっかけを得たことになった[2]。

また、それまで希少種だった横スクロールシューティングゲームは本シリーズによってスタンダードが再構築され、横スクロールシューティングゲームは地形などをゲームに用いた、より戦略的でパターン性の強いゲームが中心となった。その代表が1987年にアイレムが制作した『R-TYPE』であり、グラディウスの影響を大きく受けた作品であることが示唆されている。

2009年02月04日

平氏(へいし、たいらうじ)は、皇族が臣下

平氏(へいし、たいらうじ)は、皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つ、「平朝臣」を姓とする賜姓皇族。家紋は揚羽蝶など。
ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ

源氏と同じく、皇子皇女の処遇として賜姓が行われたが、天皇の孫以降の代に賜姓を受けた例が多いと言われ、そのため源氏よりも格は下とされる。「平」という名称の由来は不明であるが、もっとも有力な説は太田亮が唱えて藤木邦彦・佐伯有清らが発展させた説で、最初の平氏であった桓武平氏の祖である桓武天皇が建設した平安京にちなんで「平(和訓:多比良)」と名づけたとするものである。また、安田政彦はこの説を支持しつつも、源氏・在原氏と同様に中国古典からの出典も存在した可能性について指摘している。

桓武天皇から出た桓武平氏、仁明天皇から出た仁明平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、光孝天皇から出た光孝平氏の四流あるが、武家平氏として子孫の活躍が知られるのは平氏政権を作った平家(平清盛の家)を出した伊勢平氏や、鎌倉幕府の執権北条氏を出した坂東平氏などの桓武平氏のみで、一般に平氏といえば桓武平氏を指すことが多い。

一般的に「東国の源氏、西国の平氏」と言われるが、東国に平氏が全くいなかったわけではない。むしろ親王任国が集中した東国が平氏系武士の盤踞地で、その一族がその後、中央(朝廷)に勢力を伸ばし、西国にも平氏勢力が広がっていったという方が適切である。著名な平氏出身者としては例えば東国に独立政権を樹立しようとして失敗した下総国・常陸国の平将門、時代が下って貴族政権で台頭した平清盛の先祖も東国出身の土着平氏であり、これを倒した源頼朝を支えた坂東平氏も同じ土着系平氏の末裔であった。この時の源平氏族のこと争いを「源氏と平氏」ではなく、「源氏と平家(平清盛の一族)」と呼ばれ区別されるのはこのためでる。

西暦600?700年にかけて律令制の導入に成功した藤原氏、特に藤原北家が東国においてもその基盤を確立した(宇都宮氏、小田氏、那須氏、小山氏、結城氏、佐野氏、比企氏等)。なおヤマト王権は大宝律令の編纂に先じて東国下毛野国(現在の栃木県)の国造・下毛野君の一族である下毛野古麻呂を召集し、藤原不比等と伴に律令編纂に従事させている。

その後、第50代桓武天皇から派生した桓武平氏は東国を親王任国として自領化していった(常陸国・上総国・上野国)。この自領化が平安時代末期の平氏台頭の後押しをしたと言われる。坂東平氏として著名なのは、鎌倉氏、三浦氏、千葉氏、上総氏、秩父氏、大掾氏、中村氏、長尾氏、梶原氏等である。

一方で第56代清和天皇から派生した清和源氏、特に武家棟梁と呼ばれる畿内の河内国を本拠地とした河内源氏の一族は特権階級(平氏や藤原氏等)の増長を制し、着々と東国にその基盤を広げて行った。河内源氏の流れを汲む坂東の源氏として著名なのは新田氏、足利氏、佐竹氏、武田氏、小笠原氏、里見氏等である。

結果的に坂東平氏は源氏一門や藤原氏一門に恭順し家臣となるか、あるいは抵抗して追討されるなどして、東国史上華々しい成果を収めなかったのに対し、伊勢平氏の平清盛は西国を制して中央政権を牛耳り、これに抗した河内源氏流の坂東源氏・源頼朝が平氏を追討して東国に鎌倉幕府を開き、さらに後醍醐天皇の意向を受けた新田義貞・足利尊氏が坂東平氏に乗っ取られた鎌倉幕府を倒して新たな中央政権樹立に貢献したこと、さらに鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府揃って坂東源氏の政権であったことなどが、「東国の源氏、西国の平氏」と言わしめている所以であろう。

平姓を残したのは伊勢平氏など数少ない。その伊勢平氏の傍流であったが、いわゆる平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に“平家”(へいけ)と呼ぶ。これに対して源氏は、源姓を名のった一族は多く、源家は複数になるため、通常は、源家総体という意味での源氏と呼び、源家という言い方はあまり用いない。

桓武平氏
桓武平氏(かんむへいし)は、825年以降に桓武天皇の孫たちのうち身分の低い者が、「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族である。始祖とする桓武天皇の皇子によって大きく四流に分かれるが、繁栄したのは葛原親王の流れで(他の三流は万多親王・仲野親王及び賀陽親王の流れ)、ここからさらに高棟王流と高望王流の二流に分かれる。

高棟王流
葛原親王の長男で、825年に賜姓を受けて平高棟となった高棟王の子孫。この流れは公家として京都に残り、平安時代末期に平清盛(高望王流)の正室平時子(二位尼)と、その弟で清盛の威勢によって正二位権大納言にのぼった平時忠、異母妹の建春門院平滋子が出た。時忠は壇ノ浦の合戦後、能登に流され没落したが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続いた。特に西洞院家は江戸時代まで続き、分家により同家も含め5家の堂上家を出した。

なお、時忠の子時国の子孫を称する家が能登半島で豪農(上時国家、下時国家)となり、現在も続いている。

高望王流
葛原親王の三男、高見王の子高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる家。但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。「望」と「見」)889年に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望王はそのうちの一人と推定されている。

坂東平氏
平高望は上総介として関東に下向し、その子から常陸大掾の平国香、上総介の平良兼、鎮守府将軍の平良持(平将門の父)、陸奥介の平良文らが出た。中でも平良文の子孫は関東に散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となり、これらを総称して、坂東八平氏という。

伊勢平氏と平家
平国香の子孫からは伊勢平氏が出、伊勢平氏の傍流から平清盛が出た。この平清盛らの家系を“平家”という(その他の平氏系の家系には用いない)。清盛が厳島神社を建立し、奉納した平家納経は有名。また、平清盛一族(平家)政権の没落後、亡くなった平家一門は蟹となったという伝説があり、その伝説にちなみ平家蟹という蟹の品種名が生まれる。

各地に散らばって隠れ住んだ清盛の孫や曾孫の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして薩摩の種子島氏、対馬の宗氏、尾張の織田氏などが挙げられる。しかし、これらは子孫だとしても平家一族の子孫ではなく、平家に仕えた郎党の子孫というべきだろう(織田氏については藤原氏説もあり)。

熊本県の五家荘や富山県の五箇山などは平家の落人の隠れ里と伝えられる。これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ里と伝わる地を「平家谷」と通称する。

室町時代に入ると『平家物語』が完成し、今日まで広く愛される軍記物語となった。

仁明平氏
仁明天皇の孫・雅望王、行忠王及び惟時王の子孫が平朝臣を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族。なお「仁明天皇の皇子・本康親王の子孫が「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族」を仁明平氏と定義している文献もあるが、本康親王の皇子でも源兼似・源兼仁・源朝鑑・源朝憲・源保望・源由道のように源朝臣を賜姓されて仁明源氏となった者もいるため、正確には雅望王・行忠王・惟時王の子孫が仁明平氏である。

文徳平氏
文徳天皇の皇子・惟彦親王の子孫が平朝臣を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族。

光孝平氏
光孝天皇の孫・式膽王及び興我王の子孫が平朝臣を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族。なお「光孝天皇の皇子・是忠親王の子孫が「平朝臣」を賜姓されて臣籍に下ることによって成立した氏族」を光孝平氏と定義している文献もあるが、是忠親王の子孫でも源康尚(源康行の子。康尚の祖父・英我王は是忠親王の子)のように源朝臣を賜姓されて光孝源氏となった者もいるため、正確には式膽王及び興我王の子孫が光孝平氏である。また、平高棟の孫・平中興は是忠親王の子・忠望王の養子になったため、血筋からみると高棟王流桓武平氏だが中興の子孫は光孝平氏である。従って平元規(中興の子)も光孝平氏である。

系譜
凡例 太線は実子、細線は養子。      
桓武平氏
     桓武天皇
      ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
     安殿親王  神野親王  大伴親王  葛原親王  伊予親王  良岑安世  万多親王  仲野親王  賀陽親王
            ┏━━━━━┳━━━━━┫     ┃     ┃     ┃     ┃     ┣━━━━━┓
           高棟王   善棟王   高見王    高枝王   良岑宗貞   正躬王   茂世王   忠貞王   利基王
             ┃       ┃     ┃     ┃
           高望王          素性    住世    好風
                                 ┣━━━━━┓
                                                貞文     等子
桓武平氏高棟流
    高棟王(平高棟)
     ┣━━━┳━━━┳━━━┓
     実範  正範  惟範  季長
         ┏━━━┫   ┃
         時望  伊望  中興
         ┣━━━┓   ┣━━━━┓
         珍材  直材  元規  平中興女
     ┏━━━┫   ┣━━━┓   
     惟仲  生昌  季信  親信
             ┃   ┣━━━┓
            出羽弁  重義  行義
            ┏━━━━┫   ┣━━━━━━━━━━━━━┓   
            教成   棟仲  範国            行親
            ┃    ┃   ┃             ┃
            基綱  周防内侍 経方            定家
                     ┣━━━━━━┓      ┃
                     知信  祐子内親王家紀伊  時範
     ┏━━━━━━━┳━━━━━━━┫             ┃
     時信      知範      信範            実親
     ┣━━━┳━━━┳━━━┓   ┣━━━━━━━┓     ┃
     時忠  時子  滋子  親宗  信基      信季    範家    
     ┣━━━┳━━━┓   ┣━━━┳━━━┓   ┃     ┣━━━━━━━┓
     時実  時家  時宗  親国  親長  宗宣  親輔    親範      行範        
                 ┃           ┃     ┃       ┃
                 有親          時高    基親      経高        
                 ┃           ┃     ┃ ┃
                 時継          時仲    親房      経氏         
桓武平氏高望流
    高望王(平高望)
     ┣━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓
     国香            良兼       良将          良孫 良広 良文 良持 良茂
     ┣━━━━━━━━┳━━┓ ┣━━┳━━┓  ┣━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓  ┃ ┃
     貞盛       繁盛 兼任 公雅 公連 公元 将門 将頼 将平 将文 将武 将為 忠頼    良正
  ┏━━╋━━┳━━┓  ┣━━┓  ┣━━┳━━┓  ┣━━┓           ┏━━┫     ┃
 維叙 維将 維敏 維衡 兼忠 維茂 致利 致成 致頼 良門 将国           将常 忠常    致成
  ┃  ┃   ┃  ┃                 ┃
 永盛 維時       維良       致経                 景成
     ┃                 ┃
     直方                 景政
伊勢平氏(平家)
     維衡
     ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
     正度                                    正済
     ┣━━┳━━━━━━━━━━━┳━━┳━━━━━┓            ┣━━━━━┓    
     維盛 貞季          季衡 貞衡    正衡           貞弘    正家
     ┃  ┣━━━━━━━━┓  ┃  ┃     ┃            ┃     ┃
     貞度 範季       兼季 盛遠 貞清    正盛           正弘    資盛
     ┃  ┃        ┃  ┃  ┃     ┣━━━┓        ┃    ┃
     盛房 季房       盛兼 盛国 清綱    忠盛  忠正       家弘    敦盛
     ┃  ┣━━┓     ┃  ┃  ┏━━┳━━╋━━┳━━┳━━┓   ┣━━┓   ┃
     業房 季宗 家貞    信兼 盛俊 清盛 家盛 経盛 教盛 頼盛 忠度  光弘 頼弘 有盛
  ┏━━┫  ┃  ┣━━┓  ┃  ┃  ┣━━┳━━┳━━━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┓
 業兼 教成 宗清 家継 貞能 兼隆 盛嗣 重盛 基盛 宗盛    知盛 重衡 維俊 知度 清房 徳子 盛子 廊御方
    ┏━━━┳━━┳━━┳━━┳━━┳━━┫  ┃ ┣━━┓  ┣━━┳━━┓
    維盛  資盛 清経 有盛 師盛 忠房 宗実 行盛 清宗 能宗 知章 知忠 知宗
    ┃   ┃        ┃                       ┣━━┓
   六代(高清)覚盛       源智                      重尚 助国
     ┏━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓
     経盛          教盛             頼盛
     ┣━━━┳━━━┓   ┣━━━┳━━━┳━━━┓  ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓
     経正  経俊  敦盛  通盛  教経  業盛  忠快 保盛  為盛  仲盛  知重  保業  光盛  静遍
                 ┃               ┃   ┃   ┃   ┏━━━┫   ┃
                 通衡             頼清  俊盛  貞成  保房  光度  教性
仁明平氏
    仁明天皇(正良親王)
┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
    道康親王  宗康親王  時康親王  人康親王  本康親王  国康親王  成康親王
┏━━━╋━━━┓
     雅望王 行忠王 惟時王
┏━━━┫   ┃   ┃
      希世  随時  佐忠  在寛
文徳平氏
    文徳天皇(道康親王)

    惟彦親王

    惟世
光孝平氏
    光孝天皇(時康親王)

    是忠親王
┣━━━━━┳━━━━━┓
    式膽王   興我王   忠望王
┃     ┃     |
    季明    篤行    中興(実父は桓武平氏高棟流の平季長)
      ┃     ┣━━━━┓
          兼盛    元規  平中興女

2009年01月21日

杖道(じょうどう)

杖道(じょうどう)とは「杖」(じょう、またはつえ)と呼ぶ木製の棒を用いた現代武道の一つとして杖および太刀木刀を用いる形武道(かたぶどう、型武道)[1]である。

宮本武蔵と同時代の夢想権之助(生没年不詳)を流祖とする「神道夢想流杖術」をもとに、清水隆次、乙藤市蔵が制定した杖道の流れを汲む「全日本剣道連盟杖道」が、現在もっとも修行人口が多く、一般に杖道といえばこれを指す。
カニュ デルタ アルベド プロシ ドハウツー ドワイン ドッグカ プレート セレフ ちくせい ファック ろっか クロス ティア パズル データ バビロン ジョドパー ニヒリ ドライ スパーク イカット パプア セコイア 道のかなた あみん ロポリス ラバード トニク ヘリオト ドリーム ナビタフ フリクシ 星屑 イメチ 栗マロン テネシー マクラ トランサー ドルーズ ロボット ルーティン 美しい コロラド デイジー すうせい スパコン キンカン ぴーたん れんが

その内容は、両手を広げた両掌中の程よい長さの杖を用いて左右均等に千変万化の「打つ・突く・払う」等の技を繰り出すものである。使用する杖は神道夢想流杖術の流派杖である長さ四尺二寸一分(約128cm)、径八分(約24mm)の白樫の棒が標準であるが、本来は立って、足下から胸の高さまでの長さが良いとされている。太刀は三尺三寸五分(101.5cm)、柄の長さ八寸(24.2cm)の白樫の木刀を使用する。

最大の団体は全日本剣道連盟杖道部である。通常稽古されているのは、本来「捕縛術」に用いられていた実戦的で危険とも言える「杖術」を、広く普及するために、神道夢想流杖術の形から日本剣道形と整合した杖道形として昭和43年(1968年)に清水隆次、乙藤市蔵により原型が制定され、その後改良が加えられているものである。

「全日本剣道連盟杖道」は、一人または二人で行う基本十二本と、二人で攻撃防御の形稽古を行う杖道形十二本がある。特に形では、打太刀(うちだち)、仕杖(しじょう)に分かれ、攻撃防御を行う。 杖道の気合は打ち込みで「エイッ!」突きで「ホォッ!」と力強く発声する。

形試合と段級位制をもっており、各地に支部を持ち、道場単位で活動している。

全日本剣道連盟杖道 基本
本手打(ほんてうち)[右・左]
逆手打(ぎゃくてうち)[右・左]
引落打(ひきおとしうち)[右・左]
返し突(かえしづき)[右・左]
逆手突(ぎゃくてづき)
巻落(まきおとし)
繰付(くりつけ)
繰放(くりはなし)
体当(たいあたり)
突外打(つきはずしうち)
胴払打(どうばらいうち)
体外打(たいはずしうち)[右・左]

全日本剣道連盟杖道形
着杖(つきづえ):正面を切り下げてくる太刀をかわし、小手を打つ。
水月(すいげつ):頭部を切ってくる太刀をかわして「みぞおち」を突き、太刀を打ち落とす。
引提(ひっさげ):斬りつけてくる太刀を制圧し、その後の攻撃を不能にする。
斜面(しゃめん):斬りつけてくる太刀をかわしてこめかみを打ち、さらに突く。
左貫(さかん):突いてくる太刀を杖で受け流して太刀を打つ。
物見(ものみ):斬りつけてくる太刀をかわして小手を打ち、さらに突く。
霞(かすみ):斬りつけてくる太刀をかわして体当たりし、さらにかわして繰り付けて突いて打つ。
太刀落(たちおとし):太刀をかわして頭を打ち、繰り付けて退いたところを突いて打つ。
雷打(らいうち):斬りつけてくる太刀を突き、かわして腹を突く。
正眼(せいがん):太刀の機先を制して打ち、退く太刀を突いて打つ。
乱留(みだれどめ):太刀を打ち、巻き落として体当たりして打つ。
乱合(らんあい):多くの技の総合して連携させた形。

2009年01月14日

児童文学(じどうぶんがく)

児童文学(じどうぶんがく)は、0歳から10代程度の子どもを読者として想定し大人が創作した文学作品およびジャンルを示す。

子どもを対象とした文学ジャンルについては、童話という用語が使われていることが多い。しかし、昭和時代以降は、広義には児童文学が使われるようになっており、童話に関しては、年少者向けという狭義の意味合いで一般には流布している。出版社や出版業界では、こうしたものや絵本を「児童書」と呼んで扱っている。児童書の市場規模は大きくはないが、国や世代を超えて読みつがれる名作や、幅広い世代に受け入れられベストセラーやロングセラーになる作品もある。

なお、子どもを主人公、または子ども社会とその文化をテーマとしつつ、子どもを必ずしも読者対象としていないものもあるが、この場合は、一般の文学と見なされる。

内容
子どもや若年者の成長への感化を念頭に置いた、教育的な意図、配慮がその根底にあるものが多く、子どもの興味や発育に応じた平易な言葉で書かれる。しかし、難しい内容を扱わないという訳ではなく、難しい内容でも子どもに必要と考え、わかりやすい例や言葉で表現する作家もいる。平易な表現で根源的なことを語っている場合があり、子どもに受け入れられる児童文学作品には、大人の鑑賞にも堪えられる秀逸なものも多い。たとえば、灰谷健次郎著の『兎の眼』やあさのあつこ著の『バッテリー』など一般の文庫本となって大人読者に広く流布する作品がある。また、児童書はしばしば挿絵を伴う。挿絵画家、イラストレーター、漫画家が担当する。

10代後半から20代初めをヤングアダルトと呼ぶが、児童の年代を超えた年齢層にも児童文学的な内容が求められる事がある。またこの世代特有の問題、例えば、恋愛、いじめ、薬物依存、自殺などを扱ったジャンルも登場し、「ヤングアダルト」という名称で呼ばれる事もある。

創作童話と呼ばれる作品は文学性を有する場合が多い。創作童話は狭義の童話概念であるためヤングアダルト層は対象としないが、小学校高学年程度向けの作品も含まれる事がある。

近年発生した10代を主な読者層としている文学ジャンルにライトノベルがあるが、児童文学と違い娯楽性に重きを置いているエンターテイメント作品群をいう。

歴史
日本の児童文学は、近代文学成立とほぼ同時期に確立されたと考えられる。巖谷小波による『日本昔話』が始まりとされる。1918年には鈴木三重吉主宰の雑誌『赤い鳥』が刊行された。芥川龍之介・有島武郎・北原白秋などが参加したこの雑誌は、後に新美南吉らを輩出するなど児童文学の普及・発展に貢献した。その後日本では、大人から児童に向けた教育を主眼とした内容のものが主流となっていたが、1960年代頃から遊びの要素を持ちエンターテイメントとしても優れたものや、大人の文学表現にも匹敵する作品が登場するようになった。

研究・団体
国内における児童文学の学問的研究は体系的に整備されているとは言い難いが、白百合女子大学・玉川大学・梅花女子大学・東京純心女子大学などは専門の学科・研究科を擁している。また一般の大学・短大も、何らかの形で児童文学関連の講座を設置しているところが多い。なお、教育系の学部・学科においては、幼児教育や児童学と関連づけられる場合がほとんどである。

なお、児童文学など児童書関連の公開されている資料センターとして東京・上野公園内にある国際子ども図書館と大阪・万博記念公園内にある大阪府立国際児童文学館があるが、国際子ども図書館が、国立国会図書館の児童書関連を移管して2000年(全面開館は2002年)に開館されたものに対し、大阪国際児童文学館は、1984年に鳥越信氏の蔵書12万点のコレクションをもとにマンガ、紙芝居などを含めた児童文化の資料館・研究施設として開館された。両者は現状では資料点数の面では拮抗しているが、専門員による研究・レファレンス及び収集方針が定まっており、貴重本の収集や資料保存方法など充実度では先行して開館された大阪の方に利がある。例えば、国際子ども図書館の方では、旧来の図書館としての保存方法で、カバーや帯の廃棄や保存カバーやバーコードの装備で資料が変形されたり、雑誌が合本化されて閲覧しにくく資料性が欠損したりしている場合がある。それに対して大阪国際児童文学館は、1点ずつの個別保存で雑誌の合本化もなく付録も貴重な児童文化財として保存している。

児童文学者の団体としては、戦後すぐの1946年に日本児童文学者協会(設立時の名称は児童文学者協会)が設立し、その後1955年に日本児童文芸家協会が成立した。それぞれ機関誌として「日本児童文学」、「児童文芸」を刊行している。この他に児童書のイラストレーターの団体として日本児童出版美術家連盟(童美連)があり、この三者に日本書籍出版協会の児童書部門を含めた通称”四者懇”があり、著作権を含めた児童書をめぐるさまざまな問題について協調して行動している。

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